私が住んでいる海士町では『ないものはない』なんていうポスターがいたるところに張られています。海士町のコンセプトです。
この言葉、よくコンビニやスーパーがない。という本当に「なにもない」という意味と、野菜や魚、最低限の日用品はある、自然も畑も田んぼもある「必要なものはある」という二つの意味でよく捉えてられています。
そう、育児に関しても『ないものはない』まっしぐら!
私は、習い事やスポーツ教室には、熟考の上、行かせたいと思わなくなったので、あまり、いや、もう全然気にしてません『ないものはない』。
この記事のもくじ
離島には習いごとやスポーツ教室がいったいあるのか?
お教室、あるようです。
私が知っている限りだと「そろばん教室」「ピアノ教室」はあるようです。かなり古典的です。
そして、サッカーや野球クラブはありません!
衝撃的なお話ですが、サッカーと野球は中学校の部活動でもありません。高校の部活動でもありません。かろうじで、高校では野球が同好会でおこなわれているそうです。
なぜないのか?? 子どもの数がが少ないからです。
2018年度の詳細データがないのですが、現在中学生は1学年12〜13名、それが3学年、となると全校生徒が多くて39人。バレーボールやバスケットチーム、ソフトテニスは部活であるようですが、それにサッカーや野球となると人がいなくてチームができないんです。
「そろばん教室」の聞いた話
学童(放課後児童クラブ)的な雰囲気だと聞きました。そろばんもするけれど、宿題もしたりしていて、にぎやかにやっているようです。
少子化の離島、住んでいる地区によっては隣近所に子どもがいない場合があります。となる、家に帰って近所で遊ぶ友だちがいないのです。
そう思うと、この「そろばん教室」はそういった放課後に友人たちと遊ぶのではないけれど、にぎやかに(かどうかは見たことがありませんが)やっているのであれば、それはそれでいいなと思います。
あと、そろばん。「このご時世にそろばん(笑)」「時代錯誤!」と思ったあなたに一言。
そろばん、指をかなり動かします。幼少時代手を動かすことによって、脳の中枢神経を刺激し頭の回転を早くするそうです。また、集中力・段取り力が高まる。数に強くなる。など、いいこといっぱい。
昔から伝えられただけあって、最近流行のiPadで計算するなどの知育ゲームよりいいことだと思います。私もそろばんやってたので 笑
iPadの知育ゲーム、すみません、偏見です。しかし、あのスティーブンジョブズも我が子にはiPad・iPhonを触らせなかったようです。
ジョブズは自分の子どもにiPadもiPhoneも触らせなかった
「ピアノ教室」の聞いた話と習っていた子の様子
ピアノ教室もあるようです。1年に一回は発表会もあるようです。
今、高校生になっている子ですが、恐らくピアノ教室に行っていたのでしょう、島には大人も子どもも発表できる場所がたくさんあるので(あまマーレ ピアノコンサート)そこで友人と連弾したり、アマフェス2018という離島にプロのミュージシャンを13組も呼んでおこなわれるフェスでは、高校生バンドの前座で友人たちとバンドを組んで出演する予定だったりします。
プロになれるかどうかわからないけれど、その子のいろいろな経験値をあげるきっかけにはなっていると思います。これは本土とかわらないのではないかな。
その他
女子バレーボール、バスケットボール、剣道、空手、レスリングとあるそうです。
お習いごとがないのは、不幸なことなのか?
私は高知のすっごい山の中にも二年ほど住んでおり、たまたま小学生の学習支援員を1年ほどやっていました。そのとき先生と話をしたのをきっかけに考えました。
高知や陸続きの山間部だと、サッカーや野球、お習いごとは近く、車で一時間ぐらい送り迎えすればできるところにはあるんです。
で、その先生が「子どもができて、子どもが野球がしたいと言ったらどうするの?」
本当にささやかな質問だったのですが、これを私は自分の考えを用意していなくて、ちょっと考えた訳です。女の子だったら「バレー」とか。
その先生は、さも「お習い事もさせるのもたいへんでしょ」、「させられないでしょ」、「そんな山の中に住んでどうするの?」みたいなニュアンスが、なんとなく含まれていたような気がします。
確かに、「やりたい!」と思ったときに、やらせてあげられないのはその子にとって気の毒だし、親だってできればやらせてあげたいものでしょう。プロにならないまでも、その子にとっての機会不創出になります。
しかし、私はきっぱり、「やらせない」と決めました。
そのかわり、その山の中は鮎の友釣りができる人がたくさんいるし、イノシシを捕ってくる人もいる、とりあず、そんな山の中に僻地にせっかく住んでいるのだから、そこでしかできない習えないことをやらせる。もうこれしかない。
そう思うと、野球クラブやサッカーがかなり色褪せましたよ。
あっ、でもやっぱり都心の友人の子どもたちが、英語だけのキャンプや、アートなお教室に通っていたらちょっといいなーと思ったりはします。笑
『ないものはない』環境で機会をつくり、ベストをつくす
ということで、離島で子育てすると決めたら、もうこれしかないのです。いったいなんの機会をつくってベストをつくすのか。
先ほどまで山の中の話をしていましたが、今度は離島。離島でやれることは素潜り、サザエやあわびを取る。
そんな自然いっぱいのところに住んでいるんだから、しぜんにできるでしょ〜なんて簡単に思われるかもしれませんが、世の中は少子化、私(親は)は素潜りはできてもサザエは取れない。
島のおじさんたちの話を聞くと、昔はうちのすぐそこの海もコンクリートで固められておらず、岩場で、すぐ海に入り対岸まで泳ぎに行ったものだよ。
子ども同士で遊んでいて、最初はここからここまで、次はここからここ、最後は対岸とステップを踏んだそうです。
おじさまの年代ではなくても、私と同じ年代の子も、夏休みは海に子ども三人ほうっておかれて、サザエ取ったりして昼ご飯は焼いて食べていたといういことを聞いたこともあります。
そう、まず環境。私が住んでいる地区の港はたまたまですがコンクリートに固められているから、海に入れない。これは海好きの私も泣きそうだった。
そして、例え、遊べる海があっても近所にはそういった遊ぶ子どもたちがいない!
子ども同士で遊ぶって重要なんですよ、『子どもへのまなざし』に書いていますが、子ども同士で遊ぶことで、上の子から下の子へ遊びが伝授される、子ども同士でルールを作ったり工夫する、子ども同士の環境でこそある揉まれてコミュニケーション力がついたり、お互い学び合ってます。
山遊びもしかり。
昔、当たり前にできていたことができない。
もうこの環境では離島に住んでいるからと言って、放っておいたら、素潜りができるようになる訳じゃない。
実際、両親がやらない子たちは素潜りできないという子もいたりするらしいし、土日には集まりやすい図書館併設公民館に集まってゲームを黙々とやっている子たちがいるし。
こうなると、離島ならではの体験を機会創出をしなければいけないのです。はい。なので、私自身が関わっている 森のようちんえん『お山の教室』に通わせたいと思うし、存続できるようにしたいです。(森のようちえん がなぜいいのかはまた書きます)
そして、これは地元の方と移住者の格差な気がしますが、ほんとうに、地元の人は船をもっていて、釣りや素潜りをできるかたが多いです。
そんな両親の子ならガンガン泳げるようになるだろうけど…。どうにかできる機会を作ってあげたいなと思っています。
こんだけ書いたけど、結局めざすものは?
これを言ったら、今まで書いてきたことはなにだったんだ?と思われそうですが、結局、こどもにどうなってほしいか、それに対してのお習い事だったりの経験なので、そこがないのに、なんでもやらせるというのは、なんだか本末転倒な気がします。
うん、なんでもやらせてみるっていうのも大事だけど…。結局は親の働きかけだったりするのかなと思います。
私はいまのところ大事にしたいのは「これ!」です。
子どもが生まれるというのにたいして用意(実感がわかなかった)をしなかったけれど、これは生まれる前に考えてました。
・好奇心
・自分で考えて決めれる・動ける
・柔軟性(寛容性)